昭和56年9月14日 朝の御理解  入力者松本正宏


 御理解第一節 「今、天地の開ける音を聞いて目を覚ませ」

 今天地の開ける音を聞いて目を覚ませと。いよいよより本当のことを分からせて頂く事だと思うのです。分かるのではなく、それを実験実証してなるほどそうだと、心と体でそれをいわゆる確認していく生き方。私は今朝から御神前で土と水で固めた一生と言う事を頂いたのですけれども、土と水で硬める。例えばハニワですね、あれはハニワなんか、あれは土と水で固めて一つの形を作ったものです。という生き方がどんなに素晴らしいくて本当な事かと言う事を合楽では分からせようと一生懸命になんですね。人間は土より出でて土に帰るのだ。だからその道中とても土の心でいけよと。その土の心で行くと言うことも様々なおかげを受けながら、お恵みの水を頂きながらそれを様々な形に練り上げたり、作り上げていくのだと。一生は土と水で固めた一生であるという事がこれほど間違いなく本当な事であるかと言うことが分からなければならない。そして、本当にそれを実験実証させて頂いて、確かにそうだなあと言うことを分からせてもらわなければならない。土と水で硬めた一生でありたい。それが本当だと分かる。例えば心一つで全てを創ると言われるようなことがね、本当にそうですね。自分の心次第ですねおかげはと言うことを体験しなければその素晴らしい教えが反古なってしまう。ね。
 今、天地の開ける音を聞いて目をさませ。だから本当に自分の生き方、あり方が本当でなかったと気付いて本当の生き方に変わると言うことが、私は目を覚ますと言うことだと思うのです。ね。私は今朝方から、普通でいうなら、なにやらかにやら分からんお夢ということでしょうけれども、考えてみておるそれを、あんまり克明に覚えておるのですから、何やらかにやら分からんようなお夢でしたけれどもはっきり覚えておるわけですけれども、タクシーに誰か、二三人で乗った。ところが、その、ずっと回りにまわって、その運転手さんが自分の家の前につけて、運転手さんの前に、その運転手さんは何か自分の用件があったごたる風で家によられた。そして私共にもちょっと家によってください。お茶なっとんあげるからと言った感じなんです。はあこの運転手ばっかりは私は丸きり利用したごとしてから、こっちがどこに行かなならんとにまわり道して自分家どんよってからと思わせて頂いておったら、その、キビナゴのようなものを買うて来ておるのです。安かったから買うて来たか何か。で嫁ごさんがそげなもん家にあっとに、その金もなかとにそんなんば買うちからとえらい怒りますもん。その運転手をそれでいて、大変中の良い、いうならばそのキビナゴから味のある夫婦生活が出来ておられるという感じなんです。そして、そこを、まあ通り道をしてきておりもんだから、そこから少しいったら、下のほうに下らなければならない、ところがそこには自動車ではなくて私は自転車に乗っとります。それがあんまり急な道ですから、その自転車で行きますから、ブレーキをかけながら行こうと思うところがどっこいその自転車はブレーキがきかんのです。
 こりゃ危ないと思うてその畑の中に入って、畑の中を一回りこうやって回って、その道に出てきたら、私が小学校の時に習うた先生と大変仲の良いと言う先生に会いました。やまがなおとか何とか言う先生でした。まだ、昔のままあの感じで、また、先生もあー大坪君じゃないですか、あんたいっちょん昔と変わらんのちいうてまあ、というた話でこう、二人話し合いながら下にこう下りて参りましたら、始めて、その私の知った人というか現れるわけですけれども、安東さんですね、安東久子さんと見知らぬ小粋な感じの奥さんと二人がどことこの御祝儀か何かに呼ばれて帰っておる、その、それも、大した知った仲じゃないけれども、そげんなってきておるという場面であった。それでその、私と一緒に話ておらえる、そのやながという先生とそこで四人がピッタリあったらその、安東さんが一緒になっておられる方はその、やながという先生の前の奥さんであったという事が分かった。ね。そこで、そのやなが先生と別れましたけれども、その、その、綺麗なその奥さんが色々話されるのが、もう本当に悲しい、そのまあ、不孝な一生であったというその話を安東さんにしておられ、そんならもう、こげなよかご縁はないから、合楽の金光様にお参りなさって、この方はあちらの教会長先生ですから、お話でも聞かれたらどうでしょうかというところで目が覚めたです。
 ね、ちょっと、そんなに言うたって何やらかにやら分からん感じです。こう、切れたような切れないような何かそんなお夢でしたけれども私は、今日のこの御理解を頂いてははあ、とこう改めて感じたのですけれども、いうなら、私共が色々過ごさせて頂く間にはあの人から馬鹿にされたとか、利用された時だけといったような時がありますよね。私共はまさにその、運転手の人に利用されたようなもの、ね。私やら、どこどこに行くとに回り道して、自分の用があるのに、自分の家にどんよってござる。ところがその家によって、あの、夫婦の愛のある生活の雰囲気というものを見てからなるほど、こういう夫婦もあるな、こういう生き方もあるなといったようなものを勉強した感じなんです。そしてそれあの、ブレーキの効かない自転車に乗って、いうならば、危ないと思うてその真っ直ぐ下っておったら、私はやなが先生とは会わなかった。ところがブレーキが利かなかったおかげで畑の中を一回りして出てきたら、初めてそのやなが先生という何十年ぶりに合うことが出来た。合うてどうという事でもないけれども、ね、その、先の方がね、段々その、安東さんが現れるその安東さんと一緒に、道連れの人が現れる、そこで、やなが先生との関係があったと言うことが分かった。そして、不孝な一生であった人をなら、お導きでもさせて頂こうというような働きが生まれて私共の一生というものは、それこそ本当は袖擦り合うも多少の縁というのですからその縁を生かして、そして、それを幸せになって行く手立てが信心なんです。
 ね。昨日私はある方の御取次をさせて頂いて、まあ本当に小説のようなごたるのち言うたことですけれども、息子さんがある遊び人との関係を作られて三百万とられた。二三日前その三百万払ろうたとこういう。ところがそこですんだと思うたらまた、後を付け回されて、その、尻は切れておらなかった。そこでその、息子さん達夫婦がその子供さん達もおられるそうですが、子供さんをどこにか預けてどっか遠くでも行かなとても、いうなら遊び人に付け回されて困るとこういう。昨日そんなお届けがあった。世の中には色んなことがあるもんですね。何かちょっとした、いうなら関係が出来た。おかげでその一生をもうめちゃめちゃにされるかのような状態に追いやられて、そして夫婦でどっか誰も知らん遠いところに行って働こうという。ね。何か小説のようなことがそういう、ことになっておる私それを聞かせて頂いてけれども、一緒にお導きさせて頂いた方が、昔椛目の時代に、合楽当時の椛目に一遍お参りしたことがあるのです。だから縁もあることじゃから、一遍話てみたらどうのと、ね。そげん、遠かところに行く前に、一遍合楽の親先生にお会いするように進めたらどうのという事でありました。ね。まあ、どうなるか分かりませんけれども、縁が出来たその縁が反対の方へ反対の方にいくと、もう、身の破滅というようなことにすらなりかねないことがあの人と知り合うたばっかりに、あの人と知り合うたばっかりにこういう有り難い道を分からせて頂いたということにもなるもならんもです、私はどうでも、天地がバック。ね。こんな心強いことはない。私にいつも神様がバック。ね。そして、合楽では成り行きを尊び大切にせよと仰せられるから、例えば馬鹿にされたり利用されたりといったようなことでもそこから何か頂こうとする。とにかくブレーキの利かん自動車に乗って危ないと思うておったのでいうならば、畑の中を一回りしておるうちに、そのやなが先生と合うた。合うたことがああなってこうなって、それからその人が助かるという手立てが、出切るようなそういう私共は、一生の中に様々な幸になり不幸になるという元があるという事です。頂き方次第でそれがありがたい幸せと言うことになってくるのです。
 昨日私、ある教会の先生がお参りされて、大変そこの教会にはお参りをされたけれども、御主人が白血病で助からないと。それで教会が、昔の女学校の先生の友達だったから、その先生のところに頼ってみえた。とても、今から合楽教会に十三日会という会がありよるから、お参りするけん、あなたも一緒にお参りしなさいというて昨日の十三日会にお参りしてきよった。で私その、教会の御取次のことをお願いさせて頂きよりましたらもうこれ以上は汚されまいというような、お便所があった。も足の踏み場もないごと汚れとる。しかも、まあ、上がろうとしたら、その踏み板が壊れて、下に落ち込みせんじゃろうかというように危険を感じるお便所だった。大体、水洗便所のごたるあの、何かあるからどうも、覗いて、あの見るような感じのところのそこの上に、それこそ大きな鉢でね、もうシナ料理のぽっとする美味しゅうして応えんといったような感じとがそこの上にあげてある。私は思いました。この先生が夫婦で、最近合楽合楽と傾倒して、本当にこう合楽理念を持って帰っておられる。のはありがたいけれども、それこそ食べにゃおられんように、美味しい風に作ってはあるけれども合楽理念ちゃそげなもん。もうほんとに知ったら、もうそれをきかにゃおられん、実行せにゃおられんというごと説いてある。だからシナ料理。ところが、下のそれが危険が感じるような便所であったり、もう汚れるだけ汚れとるところでどうでしょうか。シナ料理がこう出てから、もうそれこそ、食欲もなくなるでしょう。ね。為にはやはりこの、お教会の御結界というところは、便所と同じところとこう言われますから、いうなら綺麗な、そして気持ち良くいけれるようなお便所が出来なければならないし、そこになら、すきっとするようなおかげを頂かせてもらうことが出切る。私は合楽の場合はそうだと思いますよ。合楽理念というのは、美味しいシナ料理のようなものだとこういうです。一度本当に頂けたらそれこそ、味のある生活が出きる。その味のある生活の中にもです、私が今朝からお夢を頂いたようにです、ね、どういう無駄のようにあっても利用されたようにあっても、馬鹿にされたようにあっても、またある時には危険を感じるようなことがあっても、一回りして、無駄な畑を一回りしてきたところに、ある人と巡り会いがあったり、そのめぐり合いがどうという事じゃないけれども、そのめぐり合いが次ぎの人が助かることの為の働きになってきたりというような私共の日々ですから、いかにどういうようなことであっても、なるほど成り行きを大切にするとか尊ぶということはこんなにも素晴らしいことなんだ。そういう生き方をいよいよ身に付けるということが私は土の生き方ではないだろうかと。そこには限りない神様のお恵みの水も注がれて土と水とがこね合わされて、そこに、出来あがるいうならば土と水とを、こねあげて出来あがる生涯、これが一番最高の生き方なんだ。これが本当の生き方なんだ。人間が幸せになるための本当の生き方なんだと分かってそれを実験する時、始めて今天地の開ける音を聞いて目を覚ませというようなことになるのじゃないでしょうかね。
                                     どうぞ